『学力低下は錯覚である』(神永 正博. 森北出版, 2008)についてのメモ.
- 『分数ができない大学生 — 21世紀の日本が危ない』(岡部 恒治・西村 和雄・戸瀬 信之[編]. 東洋経済新報社, 1999)では数学ができないことを問題にしているが,大学生の学力が低下しているのは数学だけではない. 著者1は大学2年生に対してプログラミングの授業2をしているが「nを入力して,1からnまでの和を求めるプログラムを書きなさい」という問題に解答できる学生はせいぜい2割である. このように全ての科目で学生の学力低下が起きているように感じるがその原因を探る.
- 「ゆとり教育」犯人説
「ゆとり教育」というと「円周率は3と教える」という話が出てくるが,話題のもととなった平成10年度施行の小学校学習指導要領には,
円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるように配慮するものとする
とあるのみで,はじめから円周率を3と教えると言っているわけではない.「分数ができない大学生」において,小学生レベルの算数ができないというのは,
- 問題1: 7/8 - 4/5
- 問題2: 1/6 ÷ 7/5
- 問題3: 8/9 - 1/5 - 2/3
- 問題4: 3 × {5 + (4 - 1) × 2} - 5 × (6 - 4 ÷ 2)
- 問題5: 2 ÷ 0.25
という5問の正答率についての議論である. 5問全て正解したのが78.3%で問題4の正答率は85.5%ということなので,問題4を除くと正答率は約98%であり3,計算間違いを考慮すれば,この結果だけから「学力低下が明らかだ」というのは飛躍しすぎている.
『教育改革の幻想』(苅谷 剛彦. 筑摩書房, 2002)では,1979年と1998年の授業理解度に関する調査において「よくわかる」と「だいたいわかる」4の比率がほとんど変わらないことから,ゆとり教育によって授業をわかる生徒の比率が上がるという見込みは外れたとしている. しかしながら,1979年に比べて1998年では「だいたいわかる」,「半分くらいわかる」という生徒が増加し,「ほとんどわからない」という生徒がほぼ半減していることから,落ちこぼれが減ったとも言うことができる5.
OECDによる「生徒の学力到達度調査」(PISA)やIEAによる「国際数学・理科教育調査」(TIMSS)における日本の順位が低下してきていることも,ゆとり教育に疑問を投げかけられる原因のひとつであろう.しかしながら,PISAもTIMSSも調査毎に参加する国・地域が増加してきている.参加国・地域の増加を考慮して,日本が上位何%にいるのかを比較すると日本の子供たちの学力が国際的に大幅に低下したとは言えない.
少子化が進んで受験生が減少しても入学定員が減らなければ,少子化以前よりもできない学生が入学することになる. これは,低レベルの大学について顕著になるが中位・上位でも同様である. このような状態で,大学の教員に最近の学生の学力について尋ねれば,どのレベルの大学の教員でも「以前よりもできなくなった」と答えることになる6. しかしながら,同世代における「できる学生」と「できない学生」の割合は何も変化していない. つまり,(大学生の)学力が低下してみえるのは,少子化に連動して大学の定員が減っていないからである.
- 理工系離れ
- 科学技術への関心が弱まるのは先進国共通の現象である.
- 日本における製造業の就業者数は1992年を境に直線的に減少しているが,1992年から現在まで製造業が実質GDPに占める割合はほとんど変化していない. これは,製造業の効率が向上したことを意味している.
- 科学技術への関心が弱まり製造業の就業者数が減少しているのであれば,大学の理工系学部の学生数が減少するであろう. 1970年と2005年の大学における分野別の人数比のデータでは,理学はほぼ変化無しで,工学が21.1%から17.3%に低下している. つまり,理工系離れは適切ではなく工学系離れである.
- 工学系離れにみえる原因のひとつは,学生数全体に占める女子学生の割合が増えている7にも関わらず女子が工学を選択する率が少ないことによる. 実際,1970年でも2005年でも男子の1/4が工学部に進学している. 一方,1970年に工学を選択した女子は0.7%で,2005年でも4.5%でしかない8.
- 工学系離れの他の原因は,理系(理工系 + 医歯薬系)内部で,工学部から理,医歯薬系へのシフトが起きていること.
- (以下,筆者の教育に対する提言などは略)
やはり,(大学生の)学力は低下している9とも言えるわけなので,タイトルがちょっとミスリードだな…
神永氏. ↩︎
1年次に計算機リテラシとプログラミングの初歩の講義を受けてきている.さらにこれは,高校で「情報」という科目を受けてきているはずの世代の話. ↩︎
5問がそれぞれ独立だった場合. ↩︎
その他の選択肢は「半分くらいわかる」,「わからないことが多い」,「ほとんどわからない」. ↩︎
ただし,「よくわかる」という生徒もほぼ半減している. ↩︎
そして,それは事実. ↩︎
大学在籍者数は1970年で男子が約110万人,女子が約24万人.これが,2005年には男子が約150万人,女子が約101万人になる. ↩︎
他の先進国における工学系の女子の割合は,アメリカ(1990)は17%,イギリス(1991)は15%,フランス(1991)は26%,と日本よりもずっと高い. ↩︎
実際には,フリン効果の影響もありそうなので良くわからないけど… ↩︎